「犬さん」
まいな様が僕を呼ぶ。
「はい、なんでしょうか?」
「まいな、おなか減っちゃった…
料理お願いしてもいいかな?」
「あ、はい、ただいま…」
僕は厨房に向かうために、体を反転させて歩き始めた。
朝倉研究所は、名前には確かに研究所とついているが、施設の作りとしては病院のそれに近く、立派な厨房も備えつけられているのだ。
「…犬さん、どこに行くの?」
だが、どうやら僕は、その立派な厨房へと向かう必要は最初からなかったようだ。
まいな様は、部屋に備え付けられているベットに腰掛け、テーブルにはなぜか、いつの間にか包丁とフライパン、そしてガスコンロが用意されていた。
食材は、見あたらない。
「えっと…
まいな様、これは?」
僕には何も理解ができなかった。
いや、正確には"理解することを放棄した"という方がふさわしいのかもしれない。
「犬さん、リグルちゃんもお腹空かしてるんだよ?
ちゃんと、お料理を作ってくれないと困るよ」
リグルの方に目を合わすと、ちょうどお腹の虫をコロコロ鳴かしているリグルの姿があった。
その表情は…まるで、好きな食べ物を待つ子供のようだった。
そして、そのリグルの目線は、僕に向けられていた。
「大好きな女の子に食べてもらえるんだから、犬さんも幸せものだよね!
うふふ♪」
まいな様は、満面の笑みを浮かべながら、さりげなく包丁の向きを僕が取りやすいようにと直した。
依然として、食材が出される気配はない。
円満で暖かい空気が部屋を支配する中、その中で僕ただ一人が謎の緊張感を覚えている。
「さ、犬さん♪
お料理よろしくね☆」
「犬君のお肉、早く食べたいな☆」
リグルの言葉で、全てを悟った。
そう、お嬢様方は、僕が僕を調理するのを待っているのだ。
当然のことながら、僕にそれを拒否する権限などあるはずもなく、僕は従うしかない。
そっと、包丁を手に取る。
4つのまなざしが、僕に注がれる。
ゆっくりと左腕に包丁の刃をあてる。
ひんやりとした痛みが怖い。
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