『西行寺幽々子』
暑さが厳しい夏真っ盛りのある日、俺が廊下をほうきで掃除していたところ、肩に冷たい感触が置かれた。
「貴方、お疲れ様♪ 少し一休みしない?」
振り返って確認するまでもない。ここ白玉楼の主、幽々子が俺の肩を掴んでいるのだ。
丁度喉が渇いていたところなので、俺は掃除の手を止めた。
「そうだな。この暑さだし、何か飲みたいな」
「では私の部屋に行きましょう。お茶を用意してあげるわ」
俺はほうきを片付けて、幽々子を背に伴ったまま彼女の自室に向かった。
白玉楼は馬鹿みたいに広いが、幸いにして幽々子の部屋は近かったので、一分もかからずに着いた。部屋の前まで行くと肩のひんやりとした感触は無くなり、幽々子が自ら襖を開けて招き入れてくれた。
「そこに置いてあるわ。麦茶でよかったかしら?」
「ああ、ありがとう」
部屋の中央の机の上には2つの湯飲みと山積みの茶菓子がある。俺は自分の湯飲みを選び、中の麦茶を一気に飲み干した。
「ふぅ……生き返った気分だ」
「まだ死んでいないでしょうに」
くすくすと幽々子は笑って、早速茶菓子に手を出していた。菓子の山などこいつにかかれば5分とかからず平らげてしまいそうだ。
それから俺達は茶と菓子を楽しみつつ他愛ない会話を続けた。
からかわれることも多いが、幽々子と話すのは基本的に楽しい。
しかし、会話が一段落したところで、幽々子は急に真面目な顔つきになって、こう切り出してきた。
「そういえば貴方。貴方が来てからもう……どのくらい経つのかしら」
「ん? 確か……2年くらいになるんじゃないか、多分」
「ふふ、忘れてしまったわ。もう貴方がいることが日常になってしまったし」
日常、か。そう言われて、少し嬉しくなった。
だが、幽々子の表情には珍しく陰りが見えた。
「……ねえ、貴方。帰りたいと思ったことはない? ここには貴方の非常識しかないし。紫に無理を言えば……もしかしたら帰れるかもしれないわ。だから……」
なんだ、いきなり何を言い出すんだ? どうして今になって、そんな話をする?
俺は疑問に思いながらも迷い無く答えた。
「そう思ったことはないな。今のこの生活は俺にとってはかけがえのないものだ。ここに居たいからここに居る、それだけだ」
幽々子は口元を隠すように扇子を広げて、少し悲しげな目を向けてきた。
「でもね……ここに貴方の未来はないのよ。ここは死者の世界、そして貴方は生者だから。生者であれば、然るべき場所で未来を掴んで、幸せに暮らしてほしいのよ」
然るべき場所―――俺が生まれ育ってきた外の世界。いや、もしかしたら人間として普通に暮らせる所を言っているのかもしれない。冥界にいては幸せになれないと、幽々子は俺を気遣っているのか? その気持ちは有り難いが、もう俺は……戻れない。
「ここでの生活はもう俺の日常だ。今更帰ろうとは思わない。それに俺は、幽々子の傍に居たいんだ」
幽々子の目が一瞬見開かれたが、すぐに細められた。
「……私には未来がないの。私と一緒にいるということは、未来を捨てることと同義よ」
確か花見の時にもそんなことを言っていたな、と俺は思い出した。
あの時の幽々子はひどく儚かった。今にも散ってしまいそうなあの雰囲気が、今の彼女からも感じられた。
「未来も何もない私と一緒に居て、そして死んでいくと言うの? 私に貴方の未来を消せと……貴方はそう言うの?」
未来がない。その意味を、俺は初めて言われた時から考えていた。
ここに、幽々子の傍に居れば、確かに、生きていれば当たり前に手に入る幸せが、未来がない。
恐らく幽々子はそう言いたいのだろう。
だが、俺は幽々子と同じようには考えていなかった。
「お前、もしかして自分は未来を作れないと思っているのか?」
幽々子は扇子を閉じて、手を胸に当てた。
「ええ、思っているわ。生まれ変わることも出来ず、子を宿すことも周りと同じ時を共有することも出来ない。そんな私にどんな未来が作れると言うの? 作れるわけがないわ」
「いや、作れる! お前にもできる未来があるはずだ!」
「気休めはよして頂戴っ!」
唐突に幽々子は声を荒げた。溜め込んでいたものが溢れ出したかのように次々と言葉を紡ぎ出した。
「私だって……私だって未来が欲しい! 毎日笑い合って、愛し合って、子供を授かって、老いて死んでいく。そんな……生者にとっては当たり前の未来が……でも……私には出来ないのよ! 愛する人との愛の結晶も生み出せず、共に老いていくことすら叶わない。そんな私が……どんな未来を作れると言うの……こんな能力がなければ……今頃転生して……幸せになれたのに……」
これが、幽々子の本音―――死者である自分自身への絶望と孤独。
こうして直面すると、愕然とせざるを得なかった。
絶対的な生と死の壁。立ち向かうにはあまりにも強大すぎる。
しかし、そんなことよりも、俺は自らを否定する幽々子の言葉を、これ以上聞きたくはなかった。
「やめろっ……今の自分を否定するな!」
はっとした幽々子は一旦口を噤んだ。そして、うっすらと瞳を涙で濡らし、ゆっくりと言う。
「そうね……その通りだわ。この能力がなければ……今のこの生活もない。でもね……私が今言ったことはすべて事実なの。私は子供も授かれない、老いることも死ぬこともない。それは……貴方に深い絶望を与える……何も変わらない私を、いつか貴方は……」
不変の未来。自分が老いていく中、幽々子は変わらずに存在し続ける。
妖忌はそれが幽々子の心を傷つけているのではないかと考え、姿を消したという。
まさかお前は、恐れているのか? 俺もまた、同じ結末に至るのではないかと。
そんな未来にはさせない。何故なら俺は、それでも幽々子のことを―――
「確かに生と死の境界線はどうにもならないかもしれない。だが、そんなことで俺の気持ちを抑えることなんて出来ないんだよ!」
すがるように、幽々子は俺に左手を伸ばしてきた。
「ならば……見せて。その気持ちを……」
今だ。今こそ言うんだ。俺の気持ちの、すべてを!
「子供を作れなくとも、老いて死ぬことが出来なくとも、俺は幽々子を愛してる! ずっと変わらないお前であっても、決して見捨てたりはしない!!」
気が付けば、俺は幽々子の身体を抱きしめていた。離れないように、散ってしまわないように、強く。すると、幽々子は俺の胸の中で身体を震わせた。
「…………う……うう……」
嗚咽を漏らすその様子から、俺は彼女が泣いているとわかった。
「……うわああああ!! ううう……うううう……貴方……!」
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